備忘録としていつかは書いてみたかったこと1
今から書こうとしていることは、いつか書こうと思っていたことだ。
何故書きたいと思っていたか。
一つは、自分と同じような経験をしている人がもしかしたらいるかもしれないし、その人と知り合えるかもしれないから
一つは、自分の中ではまだ受け入れることができていない事実(?)をうけいれることができるようになるのかもしれないと期待しているから
多分言葉にするとこういうことだけど、結局誰かにわかってほしいとか、認めてもらいたいんじゃないかなとも思っている。
今まで書こうと思って書かなかったのは、同情を欲しがっていると思われたくないとか、個人がバレてしまうのではないかと思ったから、あとは説明がうまくできないが、注目を集めたい欲求みたいなものが自分の中で許せなかった。
けど、なんか書かなきゃいけない気が収まらなかった。
(この更新してないブログを開設してからずっと頭の隅にあった。)
そろそろ書き始める。
発症
私は、10歳のときに、脳動静脈奇形(AVM)という病気を発症した。
詳しい症状は、ウィキとか読んで下さい。
簡単に言うと脳内出血で、
外からの原因ではなく、生まれつきの脳の血管のせい。
そして、この病気が発症する人はどうやら少ないらしい。
いつ誰に言われたかは忘れてしまったが、10万人に1人とかそれくらいらしい。
そんな珍しい病気に10歳でなった。
サッカーの練習をしているときに突然倒れ、救急車に乗り、その後の記憶はない。
起きたらICUにいて、手術をし、私は半身麻痺になったことを知った。
脳出血の血腫を除くために緊急手術をし、一命をとりとめたが半身麻痺になった。
こうやって書き起こすと、どういうタイミングで麻痺という単語を言われて、
それを自分でどう処理したかを覚えていない。(担当に先生に言われたっけ?)
当時私は、左利きであった。
珍しい左利きを自分は誇りに思っていた。
サッカーが好きだったので、左利きのサッカー選手に本当に憧れていた。
特に名波浩選手みたいになりかった。
ただ、麻痺したのは、左半身であった。
当時こんな衝撃的であろう事実をどうやって返事したんだろうか。
本当に思い出せない。
ICUの生活
ICUにいる間は、確かほとんど寝たきりだったから、起きるときはベッドのリモコンで起こしてもらっていた気がする。
テレビは見てたっけなというレベル。
家族はほぼ毎日お見舞いに来てくれた。
父、母、後は祖父
ICUではあんまり何をやっていたか記憶がない。本当に寝たり起きたりを繰り返していた気もする。動けないから何もすることもなかっただろうし。
気づけば、自分でベットから体を起こすことができるようになっていた。
そのうちリハビリの先生がきた。
S籐先生という方だった。
最初のリハビリは、ベッドの横に腰掛け、その姿勢を維持することだった。
これはよく覚えている。それすらできず、こんなこともできないのかとびっくりした。
そのあと、小児科にうつること、リハビリを始めることを聞いた気がする。
リハビリをやれば治ると思っていたから早くやりたくて仕方なかった。
ICUを抜け、小児科に移ることになったんだが、ICUの看護師さんが好きすぎて行きたくないと泣いたのもよく覚えている。
後日談だが、
その看護師さんは小児科に映った後、お見舞いに来てくれた。
今考えればいい人すぎる。
確かその頃はハリーポッターがちょうど実写化したかなんかで、ハリーポッターの下敷き、消しゴム、シャーペンをくれた。(今でも大事にとってある)
ただ残念なことにそのお見舞いに来てくれたときは、その看護師さんが私はわからなかった。
というか今でも顔が本当に思い出せないのだ。
本当に良くしてくれたこと、可愛がってくれたことは覚えているが、顔だけ覚えておらず、お見舞いに来てくれたときには、少し邪険に扱ってしまった。
書きながら本当に馬鹿だと思っている。
今もしまた会えたら本当に感謝を伝えたい。
小児科での生活
小児科にいってから、2ヶ月位入院した。
小児科はICUとちがって一日の過ごし方が決められている。
朝起こされ、検温し、血圧測り、朝飯
そのあと昼までは自由
検温し、血圧測り、昼飯
そのあと夕方までは自由
ご飯たべて、検温し、血圧測り
その後はなんかプレイルーム(?)みたいな小さい子が遊ぶ部屋に1台テレビがあって、テレビの時間とい夕食後の時間でみんなで1番組見たい人は見てた。
ただ、たいてい小さい子向けのアニメだったからテレビを見に行ったことなかったと思う。
サッカーが好きだから、代表戦とか見たかったけど、見れなかったのは当時毎回不機嫌になってた。
そんな生活だったが、ICUよりは楽しかった笑
理由は、自分と同い年くらいの人ばっかで、自分はあまり人見知りをしないから友達がすぐできたからだ。
6人部屋だったが、だいたい2〜3人とは常に仲良くなった。
(中には他の子と関わりたくない、または親の意向(?)でずっとカーテン閉めてる子もいた)
お互い入院しているからなのは分からないが、なんで入院しているとか、
お前体変じゃね?みたいな会話はまったくなかった。
だから変な意味で自分が病気だということはあまり意識になかった。
私は、手、足の両方のリハビリを毎日1時間ずつ午前午後何処かに入れていたのでヒマではないほうだったが、
基本的に入院生活は暇である。
大人の病棟のようにテレビも各ベットにあるわけではない。
だから、話せそうな子なら話しかけるし、向こうも暇だから話す。
子どもが、この暇な時間を埋めるのは、ゲーム、漫画、本くらいしかない。
入院生活は暇すぎたので当時コロコロコミックは毎月買ってもらった。
あとはこの頃はテニプリを全巻買ってた。
それはとても楽しみであった。
あとゲームだが、私の家はゲームに厳しく(?)ゲームボーイが禁止されていた。
ただ、入院してくる他の子はたいてい持っていてとても羨ましかった。
必死にお願いして買ってもらった。
ちなみにこの頃から片手でゲームをどうやってやるかを考え、マスターした。
よく好きなものは自然と努力してうまくなるみたいなこと言われるけど、
気づけばマスターしてたので努力した記憶も、苦労した記憶もない。
本は、当時流行ってたハリーポッターを読んだ。
デルトラクエストもかな?笑
イチローの伝記とか偉人の伝記の本も買ってくれたので呼んだ。
多分買ってきてくれた本は全部読んだ。
時々、入院してくる子の持っているゲームがやたら面白いときがある。
こういうときは、その子がゲームしてるのを見に行く。
当時、私は、まだ歩けなかったので移動は完全に車椅子。
しかも自分でこげないので、トイレいくにも看護師さんを呼ばなければいけなかった。
たけど、ゲームをしているのを見たいから友達のベッドまで車椅子を動かしてもらって横でゲームをしているのを見ていた。
そのゲーム見ているときで、かなり鮮明に覚えている思い出がある。
いつも通り、車椅子で近くにつけてもらいゲームを車椅子から隣で見ていた。
そのうちとても盛り上がり、もっとよく見ようと前のめりになったときだった。
車椅子からずり落ちたのだ。
ずるっとゆっくりと。だからケガとかするわけはないんだが、自分で戻れない笑
腕の力もないから引っ張り上げられないし、足の力もないから立てない笑
ベッドと車椅子の間に落ちてしまった。
こんなのもできないのかと心のなかで困ったーと心のなかで笑っていた。笑
そして、自分は大丈夫といい、その友達はわかったといいゲームを続けていた。
そのうち出れないっぽいので、友達に看護師さんを呼んでもらった。
S川さんという婦長さんがたまたま通ったので、その友達はこう呼んでくれた。
「S川さーん。島田が落ちた。」
この時のS川さんの焦りと、呼びながらもゲームから目を離さない彼の姿はとてもよく覚えている。
なぜだかとてもおもしろかったのである。
その後、友達と一緒にとても怒られたのだが、その友達とケラケラ笑ってた笑
なんでそんな焦っているのかわからず面白かったんだと思う。
その友達の名前は忘れた。笑
2ヶ月くらいある入院生活の中で、結構いろんな子あったと思う。
だいたい、骨折とか盲腸とかあとは肺炎も多かった気がする。みんな入院期間は忘れてしまったけど、だいたいみんな私よりは早く退院していく。
ずっと管につながれているナースステーションの前に入院してた子は印象に残ってる。
脈の機械の音がずっとするので、死んじゃうのかなと変なことを考えていた。
この子は私が退院するときも入院していたし、小児科にいく前からいたみたいだから重い病気だったと思う。
当時私は小4で小児科は小6までしか入れないからどちらかと言えば年上な方だったが、
年上も年下も色んな子と色んな話をしたと思う。(内容は覚えていない)
年下の子とかだと、自分のベッドに遊びに来てくれる子もいた。
自分は移動の度看護師さんを呼ぶ必要があったからとても楽だった。
ただ、世の中こんなに入院する子がたくさんいるんだとびっくりしたことは覚えている。
そんだけ子どもたちだけでは仲がいいんだが、夕方の面会の時間になって親が来ると大抵みんなカーテン閉めるのである。(うちも例に漏れずだったと思う。)
今考えれば家族水入らずにしたいんだろうが、少し反抗期もあったのか親より友達ゲームしていたいと思うことが多々あった。
まだリハビリについてや、術後の経過について全く書いていないのにこんなにも書いてしまった。
自分でも驚いているが、また別の日に次回を書く。